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キャサリン・マッキノン

『働く女性のセクシュアル・ハラスメント』

(イエール大学出版、1979年)

 Catharine A. MacKinnon, Sexual Harassment of Working Women, Yale University Press, 1979.(村山淳彦監訳『セクシァル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン』、こうち書房、1999年)
     ―――――――――――――――――――――――
 1979年に出版された本書は、アメリカにおいて(したがって世界で)、初めてセクシャル・ハラスメントをフェミニスト法学の立場から体系的に分析し、理論化した著作である。その後のセクシャル・ハラスメント理論の枠組みとなっている考え方――セクシャル・ハラスメントを対価型(代償型)と環境型に分類し、そのそれぞれが性差別であるとする――はすべて、この著作が基礎となっている。本書の出版後、主要な判例と雇用機会均等委員会(EEOC)のガイドラインは基本的にこのマッキノンの理論を採用している。
 しかし本書の意義は、セクシャル・ハラスメント問題だけにとどまらない。女性の地位の不平等の問題、性差別の問題をフェミニズムおよび法律の両方においてどのようにアプローチすべきかに関して、基本的なものの見方・考え方を明らかにしており、フェミニズム全体、法学全体に、大きな貢献をなした。
 
   セクシュアル・ハラスメントとは何か
 では、本書の中身の紹介に入ろう。マッキノンは「第1章 はじめに」の部分で、セクシャル・ハラスメントを簡潔に次のように定義している。
 「セクシャル・ハラスメントとは、最も広く定義するならば、不平等な権力関係を背景として望まぬ性的要求を押しつけることである。この概念にとって中心をなすのは、ある社会領域から生じている権力を、別の領域において利益誘導するために、あるいは不利益を押しつけるために、行使することである。その主要な仕組みを最もうまく表現すれば、2つの不平等の相互強制(reciprocal enforcement)と言うことができるであろう。一方の不平等が性的なもので、他方の不平等が経済的なものである場合、それらが結合した制裁はとりわけ大きな威力を発揮する」(邦訳、26頁)(訳文は一部変えてある)。
 そして、マッキノンは、性差別に対する2つのアプローチを提示している。一つは、「差異」アプローチで、もう一つが「不平等」アプローチである(訳文では、それぞれ「差異」説、「不平等」説と訳されている)。第一の見方は、両性の社会的・生物学的差異にもとづいて、両性の取り扱いが恣意的な区別にもとづいている場合に、それを差別とみなす。それに対して、第二の見方は、両性が異なっているだけでなく、社会的に不平等な地位に置かれており、この不平等な地位を強める行為は差別とみなされる。マッキノンが推奨するのはもちろん、後者のアプローチである。
 この2つの見方を区別することはきわめて重要である。なぜなら、人々は(研究者も!)無意識のうちに、前者のアプローチ(リベラリズムであるとともに、通俗的常識にもとづいている)を採用しがちであり、この立場においては、差別という概念は著しく切り縮められるからである。
 この差異アプローチにもとづくなら、ある行為が性差別と言えるためには、次の3つの基準をすべて満たしているか、あるいは少なくともどれか一つを満たしていなければならない。(1)その行為が一方の性にのみ起こっており、他方の性には起こらないこと、(2)その行為が一方の性に属するすべての人に起こっていること、(3)その行為に生物学的基礎も、業務上の合理性もなく、人為的かつ恣意的であること。
 これらの基準にもとづくなら、性差別と言えるのはごくわずかな現象に絞られてしまう。たとえば、マッキノンはいくつかの判例を紹介しているが、妊娠による休業だけを労働者の休業保険の補償対象に加えないという会社の傷病保険制度は、(2)の基準を満たしていないという理由で、最高裁判決で性差別とはみなされなかった。つまり、たしかに妊娠するのは女性だけであるが、すべての女性が妊娠するわけではないので、妊娠を除外することは女性全体を除外することではないので、性差別ではない、というのだ。
 また、同じく、セクシャル・ハラスメントは、初期の頃は、(1)の基準を満たしていないという理由で、性差別とはみなされなかった。つまり、セクハラを受けるのは女性だけではなく、男性も受ける可能性があるので、性差別ではないというのだ。またそれは、ジェンダーとしての女性を差別するものではなく、セクシュアリティにもとづく権利侵害にすぎないので、公民権法が禁じている「性にもとづく差別」にあたらないとした。こうした反動的判例を一つ一つ突破していくことで、ようやくセクハラを性差別として認識させることができたのである。そこには、性差別とは何か、それに対する法的是正はどうあるべきかに関する、リベラリズムの常識を批判する理論的・思想的営為があったのである。
 
   セクシュアル・ハラスメントと性差別
 最近、この日本で、かつての反動的判例そのままに、セクハラは女性だけが受けるわけではないので「性差別」ではない、それはセクシュアリティに対する侵害行為として概念化するべきである、という言説がしばしば見られるようになっている。
 こうした言説は、アメリカにおけるセクハラ裁判の歴史についても、セクハラを性差別と認定させた理論的蓄積について無知なまま、あたかもその主張がより斬新で、よりリベラルなものであるかのように勘違いしているようだ。そうした言説のなかでは、マッキノンが本書で取り上げているいわゆる「両性愛ハラスメント」を口実にした議論も見られる。すなわち、職場の男性上司が、女性の部下である自分と男性の部下である同僚の両方にいやがらせをはたらいているような場合には、性差別とは言えない、というわけである。しかし、このような論理は、セクシャル・ハラスメント裁判の過程でとっくに加害者側によって、自分の行為が性差別ではない言い訳として利用されずみの理論なのである。
 このような主張の誤りは、人種差別と比較すればただちに明らかになる。黒人のロドニー・キング氏が白人警官にリンチされた事件は人種差別的事件だろうか、それとも単に警官による不法行為だろうか? もちろん、人種差別事件である。だが、この理論にもとづくなら、これは人種差別ではない。なぜなら、警官による暴行を受けるのは何も黒人だけではないし、すべての黒人が白人警官に殴られるわけでもないからである。だが、こんな屁理屈を主張するのは、アメリカでは人種差別主義者だけであろう。
 ある行為を性差別であると認定するためには、その行為が同一の性別にのみ起こる必要もなければ、同一の性別に属するすべての人に起こる必要もない。セクシャル・ハラスメントの被害者が圧倒的に女性であり、加害者が圧倒的に男性であるのが、たまたま起こった偶然であると言うのでもないかぎり、この圧倒的な非対称性は性差別であると認定する一つの有力な根拠となる。また、セクシュアリティとジェンダーとは結びついているので、セクシュアリティにもとづく権利侵害は性差別である。なぜなら、マッキノンが主張しているように、女性であるか男性であるかの社会の見方は、主として社会的に構築されたものとしてのそのセクシュアリティによって規定されているからである。
 したがって、女性の上司から性的に嫌がらせをされる男性部下や、男性上司によって嫌がらせをされる男性部下は、言葉の社会的な意味で「女性化」されたのであり、この事実は、セクシャル・ハラスメントが性差別であるとする議論を覆すものではない。むしろ、セクシャル・ハラスメントが自然現象ではなく、社会現象であること、性差別社会における権力的セクシュアリティの表現であることを示すものである(ただし、同性愛者が同性愛者であるという理由で異性愛者からセクハラされる場合には、同性愛差別としてのセクシャル・ハラスメントとして概念化すべきだろう)。
 
   各章の構成
 さて、マッキノンは、以上の基本的視点にもとづいて、セクシャル・ハラスメントの分析を行なっていく。2章では、労働市場における女性の地位が分析され、女性の労働が多くの場合、「女性職」に限定され(性別職務分離)、地位も低く(垂直的階層性)、収入も少なく、そしてセクシュアル化されていることを明らかにする。
 第3章では、セクシャル・ハラスメントに関する女性の経験が分析される。この分析を通して、有名な「対価型」(「代償型」とも訳せる)と「職場環境型」という2つの類別が析出される。
 「対価型」とは、性的な関係と引き換えに、何らかの利益が提示される場合、あるいは、性的な関係を拒否した場合に何らかの不利益が強要される場合である。これは典型的な形で、経済的ヒエラルキーと性的ヒエラルキーとが結合している。また、「職場環境型」とは、とくに明示的に何らかの対価ないし代償が示されるわけではないが、同僚ないし上司による執拗な性的言い寄りや性的に不快な言動が職場環境となり、女性労働者の尊厳や労働権を侵害している場合である。
 マッキノン自身が指摘しているように、この2つの類別はしばしば結合し、あるいは相互に転化する。たとえば、日常的な性的言動やポルノグラフィの掲示が男性労働者たちによって行なわれているような職場環境において、女性労働者が我慢しているうちはいいが(本当はよくないのだが)、我慢できなくなって上司に苦情を言ったとたんに、協調性のない労働者として、露骨に嫌がらせされて職場を辞めざるをえなくなったり、雇用上の不利益をこうむる場合、職場環境型が代償型に転化するのである。
 第4章では、セクシャル・ハラスメントをめぐる諸判例が分析され、それらの多くが差異論的立場にもとづいていることが明らかにされる。
 第5章では、「はじめに」で提示された2つのアプローチ(差異説と不平等説)について改めて詳しく述べられ、この2つ(というよりも、ほとんど第1の差異アプローチ)がこれまでの性差別をめぐる諸判例にどのように反映しているかが鋭く分析される。
 第6章は、以上の議論をふまえていよいよ、セクシャル・ハラスメントがなぜいかなる意味で性差別とみなしうるのかが分析される。この議論の前提として、そもそも「性」とは何かについても分析が加えられている。また、性差別という概念以外で、セクシャル・ハラスメントを不法とみなしうるさまざまな法的枠組みも検討されている。そして、性差別に関する2つのアプローチのいずれをとっても、セクシャル・ハラスメントは性差別とみなしうることを明らかにしている。
 最後の第7章では、セクシャル・ハラスメントの問題を越えて、一般に女性のセクシュアリティをめぐる諸問題をフェミニストの側がどのように扱うべきか、という点にまで議論の射程が及んでおり、その後のマッキノンの理論的発展を予測させるものとなっている。とくに、レイプをめぐって、レイプは単なる暴力であって性行為ではないという言説について取り上げられ、それが、セクシュアリティと暴力とを機械的に分離し、性的不平等のもとにおける「通常の性行為」を批判できなくしてしまっていることが、言われている。この視点は、マッキノンに独特なもので、その後、ポルノグラフィの分析などに大いに威力を発揮することになる。
 
   本書の弱点
 以上、本書は、すぐれた多くの論点を提出し、セクハラ問題の前進にとっても、ラディカル・フェミニズムの発展にも大きな寄与を果たしたが、当然ながら弱点もある。
 とくに重要なのは、マッキノンが、セクシャル・ハラスメントをジェンダー間の性的ヒエラルキーと労使間の経済的ヒエラルキーとの相互強制として規定しながら、労使間の経済的ヒエラルキーについてをほとんど批判的に検討していないことである。それは事実上与件として考察されている。しかし、アメリカにおけるセクシャル・ハラスメントを深刻にしている重大な要因として、使用者による「解雇自由の原則」が存在すること、そして、解雇や昇進の権限が直属の上司に委ねられていることがあることを忘れてはならない。このような、労働者にとって圧倒的に不利な状況があるがゆえに、性的な権力行使もまたより無制約にできるのである。
 したがって、経済的ヒエラルキーが性的権力行使と結びつくことを是正し排除するだけでなく、労使間の権力構造そのものにメスをいれ、性的であれ何であれ、使用者の権力濫用を許さない社会的ルールと規範を形成することも重要である。簡単に解雇を許さないこと、直属上司の決定権を制限すること、「自由解雇原則」そのものを見直し、生存権規定を労使関係諸法の基礎に据えること、等々である。それらは、企業内の経済ヒエラルキーにおいて圧倒的に下位に位置づけられている女性の力を強め、性的犠牲者となる可能性をも小さくするだろう。
 なお翻訳書の方には、角田由紀子氏の的確でわかりやすい「日本語版刊行にあたって」が冒頭に収録されている。
                         (by MRT)